備忘録のようなもの

思うことのあれこれを記録しておくところ

命の洗濯

 年の瀬。否応なしに街は忙しなく、いつの間にか心も懐も余裕がなくなる不思議な季節。毎年、今年こそ落ち着いて過ごしたい、なんて思いながら、結局泣きを見る、そんな季節。

 近所――と言っても、自転車で十五分ほどの商業施設の隣に、天然温泉がある。今日は久しぶりになんの予定もない日曜だったから、朝から温泉に行こうと決めていた。冬至ということもあり、ホームページを調べるとどうやら薬湯はゆず風呂だとか。

 そう、わたしはゆず風呂に浸かりに来たのだ。なのに何故、わたしは韓国人のおばちゃんにあかすりをされているのだろう。ぼんやりと思いながら、体中に走る摩擦の痛みに顔をしかめると、おばちゃんが言った。

「痛い? だいじょぶ?」

 もちろん、大丈夫なわけはない。痛いものは痛いのでそう告げると、おばちゃんは笑いながら、背中ならだいじょうぶよぉ、なんていう。今まさに腹を揉みしだいているにも関わらず。結局耐えるしかなく、とはいえ一応に加減はしてくれたのか、少しだけ痛みが和らいだ。ただ慣れただけかもしれないが、考えないことにする。

 さて、わたしがどうしてあかすりをしているかと言うと、湯船に集う人生の先輩方の井戸端に耐えきれなくなったわけでも、湯船で波を立ててはしゃぐ少女に疲れたわけでもない。不意に、落としたくなった。自身にまとわりつく、目に見えないなにかを。実際落ちるのは体にこびりついた汚れなので、当然、今年わたしが纏ってしまったであろう邪気の類は落ちるわけではない。そこはお祓いだろ、と自分でも思う。

 ただ、壁のポスターにあった「韓国式あかすり」の文字を見て、藁にも縋る思いでおばちゃんを召喚したのだ。あかすりは人生では二度目。おばちゃんはやってくるなり、はい上に寝てねー、と言ってわたしからタオルを奪った。恥じらう歳でもないので、大人しく寝ころび、今に至る。

 巨大消しカスのごとき産物が散乱し、ただただ閉口するしかない光景が広がっていたが、おばちゃんは問答無用に「次は下向きに寝てね」と言った。背中をゴリゴリと擦られる頃には、これで少しは身も軽くなっただろう、と思えた。いや、そう思わないとやっていられなかった。この痛みをもって、今年のあらゆる苦痛は終了しました。そう心の中で叫んでいた。もうこりごりだ。やってられるか。おばちゃんがわたしの代わりにそう念じながらあかすりをしているのだ、と思うと――そんなわけないのに、なんだかすっきりした。

 あかすりのあとに適当なオイルマッサージをしてもらった。おばちゃんはおそらく時間配分を完全に間違えているのだが、まあそんなことはどうでもいい。あかすりと同じ速さで手を動かしてのオイルマッサージは、なんだかおもしろかった。

「シャワーで流して、ゆっくりお風呂に浸かってね。今日寒いから」

 おばちゃんはそう言ってすべての仕事を終えて微笑んだ。マスク越しではあったけれど、目が笑っていたから確かだろう。わたしはお礼を言って、シャワーへ向かった。

 今年最後の痛みは、あかすりのあとのシャワーと硫黄の天然温泉が見事に更新した。多分、これから入る家のお風呂でさらに更新されるだろうが。