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備忘録のようなもの

思うことのあれこれを記録しておくところ

第一回文学フリマ京都

◆第一回文学フリマ京都

日時:2017年1月22日(日)11時~16時

会場:京都市勧業館 みやこめっせ 地下1階第1展示場

 

いってきました、みやこめっせ

コミックマーケットにはよく行くのですが、文学フリマははじめて。いつものノリで行ってみたら、いろいろと勝手が違って驚きました。

開場時間15分前に会場に着いたのですが、全然人がいない(コミケ比)。そもそもコミケを比較対象にすること自体が間違いなのかもしれませんが、オンリーイベントくらいのざわつきを想定していたもので。いやはや、こじんまりとして大変落ち着きます。

よい子にして待っていること15分。パンフレットをもらっていざ会場へ!

入ってみると展示場と言うだけあって会場は広々。天井も高いので閉塞感がありません。空調もよく効いていて、これならゆっくり見られそう。

 

目当ては三詩型のブース。今回の戦利品。

つ、ついに「庫内灯」を買ってしまいました。BL俳句というものがいかなるものか、と思いつつ手を出さずにいたのですが、どうやらvol.1が残りわずかということで。お世話になっている先生も寄稿されていることだし、といそいそと購入。

ああ、憐れ腐女子の性よ(時すでに遅し)

本の感想はいずれ書くとして(と言いつつ書かないかもしれない、面倒くさがりだから)、「川柳サイド」と「短歌ホリック」はTwitterでサブリミナルされていたので、迷いなく購入しました。

わたしは俳句をはじめて間もない初心者ですが、俳句とは違う定型を持った川柳や短歌にも興味があります。TwitterのTLにおけるサブリミナルでもあると思いますが、川柳には川柳の、短歌には短歌の、そして俳句には俳句の良し悪しというものがあって、やはり俳句をするにあたって「違うものを知る」ということが「俳句の良さをより実感できる」ということでもあるのかなぁ、と。

「俳句の良さをより実感できる」ということがイコール「川柳/短歌を否定する」ということではなく、同じ17音でも俳句と川柳では表現できることに違いがあるよね、というようなことです。あしからず。わたしはどうも言葉足らずなところがありまして。無駄話は長い癖に、ね。

 

文学フリマの感想のはずが脱線しました。こういうとこ、こういうところよ。

さて、文学フリマに行って一番驚いたのは、「漫画文化のキャッチ―さ」でした。誤解を恐れず言うと、コミックマーケットはマーケットの名に恥じることなく市場なのです。にぎやかで、あざやかで、わいわいしている。

一方文学フリマは、フリーマーケットと言いつつ、コミックマーケットの「マーケット」とはイコールでない、という印象がありました。

今更なんですけど、行ってみないとわからないんだなって思ったんですよ。今更なんですけどね?

そりゃあ誰だって知ってる人から見れば「今更」なんですよ。でもね、こういう発見ってやっぱり楽しいですよね。おもしろいですよね、人から教わるのではなく、体験して気付く。それに漫画文化の(表紙がカラーであるかどうかは関係なく)色鮮やかなことと言ったら、というね。

これは文学というジャンルが決してセピアだのモノトーンだのと言う話ではなく、やはり表現媒体が変われば、雰囲気もガラッと変わるものなんだな、と。

一応、コミックとついているので「漫画文化」と代表して言いましたが、コミックマーケットという文化であることは重々承知しております。こちらもどうぞお怒りなく。

いつも以上に長々と雑感をお届けしました。

ここまでお付き合いいただきありがとうございました。あー楽しかった。どれから読もうかな。

第13回鬼貫青春俳句大賞公開選考会・表彰式

◆第13回鬼貫青春俳句大賞公開選考会ならびに表彰式

 日時:2016年12月3日(土)14:00~

 会場:柿衛文庫 講座室

 選考委員:稲畑廣太郎氏(「ホトトギス」主宰)、山本純子氏(詩人)、坪内稔典氏(柿衛文庫也雲軒塾頭)、森山祐美杏氏(伊丹青年会議所専務理事)、岡田麗氏(柿衛文庫副館長)

 

 備忘録として、質問コーナーであがった質問と先生方の解答のメモ。ご一読いただく際は、内容がニュアンスであることをあらかじめご了承いただきたく。

 

Q.青春俳句大賞の「青春」とは。先生方の審査基準は?

坪内先生:今の自分(先生自身)が作れないもの。ある意味無茶苦茶でいい。

稲畑先生:作品を見ていると青春に帰る(ような作品)。共感する句。

山本先生:生活スタイルや(先生自身の)学生時代と共通していても、そうでなくてもいい。

森山先生:(坪内先生より「青春とは?」との質問があり)淡いもの。忘れていたが思い出すもの。

岡田先生:素直だけれども句にどうやって仕立てていくか。学生らしいで終わるのか、ということを踏まえつつ選ぶ。

Q.連作30句のむずかしさは? 相互関係は?

稲畑先生:季題でも人生でも出来事でも、なにかテーマを持つ。ただ、絞り込み過ぎても離れすぎてもダメ。

 

Q.はじめて俳句を作ったが、季語は必要か? 結社に入ると楽しいのか?

坪内先生:必要だと思えば必要、そうでないならそうでない。結社も同じ。

稲畑先生:時代として(明治あたり)結社で俳句を学ぶのが一般的だった。師の選を仰ぐとなると、○○作家(結社名が入る)として作る。作家としてのカラーを勉強するために、プロ・アマ関係なく結社に入る(という学び方)。なにをするにも楽しいことも苦しいこともある。スランプも無点もある。「ホトトギス」は季題があるという立場で活動している。

 

Q.詠むときはフィーリングか、否か?

坪内先生:感覚的にできる場合もある。締切があるから苦しんでいる間にひょこっとできる。句会に出ていると締切に間に合うように作る。ある種の集中を瞬間的に作る。仕事をしている頃は電車の中で作った。吊り広告を見たり。

稲畑先生:いい俳句は天から授かるもの。句会があれば作る。決められた句数以上は作るようにしている。対象をよく見ること。とにかく作る。五七五でできなければ言葉を書く。できるだけたくさん俳句を作ってみる。天から授かるために、器を持っていなければならない。

山本先生:一つ目は締切。追い詰められないと作らない。二つ目は船団の冊子を読んでいる間にそういう気分ができるので、気分で作る。力のある人に近づく努力をする。

(先生方の話を受けて)

坪内先生:ひとりで作っていては作っていられない。孤独では作れない。閉じこもっていたらあまりうまく作れない。

 

 句作にフィードバックできるかはさておき、頭の片隅に置いて時々思い出したいお話だった。

「読みをめぐって」雑感

 俳句をはじめてからというもの、なにかとつきまとうのが「読み方」で、わたしは「読み方」についてイマイチ理解できていないのではないか、と思う。

 そんなときに、俳句ラボでお世話になっている久留島先生のブログにこんな記事を見つけた。さすが久留島先生。タイムリーにもほどがある。いや、もちろんわたしとはなんの関係もないとは思うが、結果オーライだ。

 初っ端から、

このBlogでも、何度か触れたことがあるけれども、作品を読むときに「正しい読み」というものは、ないと思っている。

だから「正しい読み」を前提として、誤読や、二次創作的な読みの楽しみを批判(排撃)するような言動には、いつも不快感を覚える。

   

 と、久留島節が炸裂しているので、わたしは安心と信頼を持って読み進める。

 そもそも、どうしてわたしが「読み方」に首を傾げているかというと、巷ではBL俳句なるものがある、と知ったからだ。BL俳句というと、BL漫画の世界をそのまま俳句にしたものなのだろうと思うが、どうやらかなり奥が深いようで、いまだBL俳句なるものが実際どういうものなのかはわかっていない。同人誌も存在するようなので、いずれ手に取ってみなければ、とは思っているが、いかんせん年中財布が寂しいので実現していない。

 そのBL俳句において、わたしが疑問に思っていたのが、「BL俳句として世に出ていない句(ほとんどがそうだと思う)をBL的に読んだ場合、この読みは許されるのか否か」「作家が公にBL解釈していいよ、という流れはないのか」など。他にもあるが長くなるので省略する。

 そこで、冒頭の引用に戻る。「二次創作的な読み」という言葉がスッキリする。記事の後半にさしかかると、この「二次創作的な読み」が読みのほにゃららをどうにかこうにか、と難しいことが書いてあるのだが、わたしは「二次創作」そのものが、本来非公式であると思っているので、この「二次創作的な読み」に何か意味がもたらされたり、あわや市民権を得るようなことがあっては、「それもう二次創作ちゃうやん!」と感じるし、実際そこまで公になるようなネタだろうか、とも思う。この話はちょっとずれるので置いておくとして。

 なんでもありの無制限な誤読を奨励するわけではない。言葉の意味や、文法上で、勘違いや知識不足によってありえない読み方をしてしまうような読み方は、もちろん避けるべきものだと想う。
季語の理解度などもこれに類するもので、季語を知らない読者が季語を季語として読まない読み方を披露すれば、それはやはり優先的な解釈にはなるまい。
それらの「誤読」が批判され、斥けられるということは、理解できるのである。

  これは正直、二次創作的な読みをするにあたっても必要なことだと思う。そういう意味では、きちんと読む、ということができるようになる必要があるし、そういう意味での間違いはわたしも山ほどしていると思う。現在進行形で。

 だから、この点(言葉の意味を把握していない、情報が間違っているなど)と、「妄想で余白を埋めまくった二次創作的な読み」を同じ土俵に上げちゃあいかんでしょう、と思うし、それが批判となればなおさら。

創作家であれば袋だたきにあう覚悟も辞してはならぬ。

 注釈で小さく書いてあるが、これは「創作家」だけに限った話ではなく、「創作家は特に」であり、大抵の「言葉を発信する人」は、袋叩きの覚悟が必要なのでは、と思う。

 記事を読んで、今後わたし自身がどこかで「読み」を展開する際は、その句に敬意をもって接し、最低でも季語の意味を誤るようなことはしないでおこう、と。まずはそれからだな、と。なんだか読書感想文のような締めになってしまったが、今日のところはそういうことで。